メグミロク

英検1級保持者・日米交歓ディベート 日本代表が英語教育やディベートについてデータを用いながら解説するブログです。

第二言語を学ぶ意義

平成が終わって令和の時代が始まろうとしていますね!

今年はたくさんブログを書こうと思っていたのですが、なかなか筆(今はキーボードですね)が進みませんでした。しかしこの節目に「言語を学ぶ意味」について今考えていることを書いていこうと思います。

 

1. ソシュールの言語観からみる

 

平成が終わると聞いてどんなイメージを持ちますか?

平成生まれの私は時代が終わる「寂しさ」のイメージを抱きます。

一方、日本に来たばかりの外国人は異なった感情を抱くかもしれません。

 

スイス生まれのフェルナン・ド・ソシュールは言語を記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)分けその2つはコインの表裏のように切り離せないものであると考えました。シニフィアンは「平成」のような文字や音声、シニフィエは「平成」の意味内容やイメージということになります。「平成」という文字(シニフィアン)とそこに「寂しい」と意味づけを(シニフィエ)して人間は言語を使っています。

このシニフィアンシニフィエは切っても切り離せない関係ではありますが、そこに必然性はありません。日本語では犬、英語ではdogと(ほとんど)同じものを表すのに違う単語が使われていることがその証明です。これを恣意性と言います。つまり犬を犬と呼ばずに「てぬ」と呼んでも良かったわけです。

 

さて、ここまでソシュールの概念について簡単に説明してきましたが、これがどのように言語を学ぶ意味とつながっているのでしょうか。

 

1つ目に言えることとしては、言語について深く考えることができるようになると言うことです。言語を使って言語について考えること(メタ認知)で私たちが何気なく使っている言語を俯瞰してみることができます。皆さんはおそらく母語を無意識に習得していたことでしょう(自然習得)。

言語を学ぶことがなければ言葉について考える機会はほとんどないでしょう。言語について深く考えることは様々な疑問を私たちに投げかけます。なぜ人間だけがシステムとしての言語を話すのか、言語を習得するとはどのようなことなのか、言語とは何か、どうしてコミュニケーションが取れるのか、この人がこの言葉遣いをするのはなぜか、などなど。この「当たり前のことを疑ってみる、考えてみる」という行為が人類の知を広げていき人間の生活や諸処の営みを豊かにしていきます。

 

言語を学ぶ2つ目の理由は繊細なニュアンスを表現できるようになるということです。日本語では面白いと言われる言葉が英語ではbeautiful と interestingと分けることができます。日本語だけしか知らない人ではこの違いを理解することが難しいでしょう。なぜなら人は名前を与えることによって物事を判別しているからです。名前を与えることによってそこに解釈が生まれ、シニフィエシニフィアンが生まれるのです。

 

3点目に言語を通して文化を知ることができます。日本には敬語というものがありますが英語には「敬語」というものは存在しません(丁寧な表現は多数存在しますが)。そして日本では年配を敬うという文化規範が存在します。

このように言語は文化や私たちの考えていることに影響を及ぼします。これをサピア=ウォーフの仮説と呼びます。近年のポリティカルコレクトネス(看護婦ではなく看護師というような社会的に公正な語彙を使うこと)の運動でもこの思想は見られます。

 

またその言語でしか説明できない概念(ワビサビなど)を知ることができるようになります。様々な言語固有の概念や文化を保存するために言語を学ぶことは肝要であると言えます。

さらに言語に着目すると面白いことが見えて来ます。これはある男の子とその父親の話です。

ある男の子と父親が交通事故にあって病院に運ばれて来たという。その手術を担当した医師が「息子!」と叫んだそうです。これはどういうことでしょう?

 

知っている方もたくさんいらっしゃるとは思いますが、実は医者が母親だったのです。「女医」と「医者」という言葉が指し示しているように医者という言葉には「男性」という概念、シニフィエが包含されているのでしょう。言語学では女医のようなものを「有標」、医者を「無標」と区別しこの違いをわかりやすくしています。有標とは単純な言葉で言えば特殊であるということ、そして無標とは"一般的”であるということを示しています。このように言語を細かく分析することで社会の文化や構造が見えてくるのです。

社会構造という点で言語は階層を区別していることもあります。社会言語学者のウィリアム・ラボフの有名なデパートでの研究では、階層によってお客の使う発音が異なることがわかりました。映画『マイフェアレディー』でも発音の違いが階層を作っていることが示唆されています。言語を学ぶことによって文化や社会構造についての新しい気づきがあることは疑えないでしょう。

 

ソシュールの言語観から3つの点について論じて来ました。次に近年よく取り上げられるツールとしての言語を学ぶ意味を考えていきます。

 

2.  ツールとしての言語観からみる

ツールとしての言語観では言語をコミュニケーションのツールとして考えます。自分の考えを伝えるための「道具」として言語を学び使っていくのです。一つ例をあげましょう。

 

友達がポルトガルのリズボンに行った時のことです。路上でセルカ棒を売っているポルトガル人と思われる人が英語や他の言語を喋りながら観光客にセルカ棒を売ろうとしています。

 

このような例では言語が商売のための「道具」として使われていると考えることができます。生活のために必要なスキルとして言語を覚えコミュニケーションを取るということです。

 

3. ツールとしての言語観を超えて

日本の英語教育でも英語は話せれば良いというイデオロギーをしばしば目にします。

「道具」という言葉を使うと言語は人間から離れた場所に存在するものであるという認識を受けます。とんかちやペンチは人間から離れたところにある「道具」ということができます。

 

しかし、上記で説明したように言語は社会階層や自分のイデオロギーと深く結びついているものです。自分が解釈するものを言語以外で解釈することはほとんど不可能でしょう。言い換えれば、私たちの解釈は言語によって成り立っているのです。こういう論を展開すると、「では喋れない人は何も解釈できないのか」という反論を受けます。しかし、彼らは言語を持っているのです。しかしその言語は見える形でoutputされていないのです。解釈をしているかしていないかの問題をここでは取り上げているわけですから喋れないというのは関係ないのです。

 

言語をツールとしてみる考え方のもとではコミュニケーションが伝われば良いのだから"I go to school yesterday"というような非文法的(有標)な文でも伝われば良いということになりかねません。もちろん英語の規範や文法性は国際共通語としての英語(ELF)などの台頭によりその意味を問われはじめていますが、先に述べたように言語は階級やアイデンティティを作るものです。自分が発話した言葉によって人は他者から判断されてしまいます。それは言語が自己という存在や自己の思考と切り離すことができないものであるからと言えます。

 

さらに、ツールとしての言語観はAIや機械翻訳が進めば進むほど必要性が少なくなってきます。この点についてはここでは詳しく論じませんが、コミュニケーションを取るだけならGoogle翻訳でかなり補うことが出来ます。 

言語はコミュニケーションに必要なものではありますが、言語を学ぶ意味は「ツールという言語観」を超えてその重要性を私たちに考えさせてくれます。

 

4. 複言語主義

ヨーロッパを中心として端を発した考え方に複言語主義というものがあります。

鳥飼(2011)は複言語主義を次のように定義づけています。

一つ以上の言語を学ぶには全ての言語知識と経験が寄与し、言語同士が相互の関係を気づき相互に作用し合うことで新たなコミュニケーション能力が作り上げられる、ということ(p.50)

鳥飼玖美子、2011、『国際共通語としての英語』、講談社

 つまり1つの言語だけでなく2つ以上の言語を統合的に学び母語を含めた全ての言語知識を豊かにしていく営みが言語を学ぶということです。また、複言語主義が掲げる言語教育、言語学習の目的は

「全ての能力がその中で何らかの役割を果たすことができるような言語空間を作り出すこと」にあります。換言すれば、言語教育とは、ホリスティックな全人的な学習である(p. 50)

鳥飼玖美子、2011、『国際共通語としての英語』、講談社

 ということになります。言語を洗練させていくことによって人としての本質的な、根源的な知を獲得し人間としてより良く生きることができると私は信じています。

 

まとめ

イデオロギーや階級、アイデンティティなど社会的主体としての自己を如実に表す言語を学習することは自己を客観視すること、自分の文化を再考すること、他者を理解する異文化コミュニケーション能力に寄与します。ツールとしての言語観だけでは見えてこない言語学習の意義がこれからの時代ますます認識されていくのではないのでしょうか。